太田光(爆笑問題)父を語る・太宰治との秘話

太田さんのラジオを聞いていると、ときどき御両親のエピソードが出てきます。

風変わりな御両親だったようで、風変わりなところは太田さんとそっくりかと。

父親は一般人でしたが、いつもまわりの人を笑わせて人気者だったとか。

その父親が太田さんにとってあこがれだったといいます。

2019年11月25日


NHK総合


ファミリーヒストリー

「太田光~亡き父が残した書 “爆笑問題とは何ぞや”~」

田中裕二さんもインタビューで御出演されました。



感想

おもしろかったですね!

見入ってしまいました。

なんといっても太田さんのお父さんの若い頃が太田さんにそっくり!驚くほど似ていましたね。

晩年は太って別人のようでしたが、愛嬌のあるお顔立ちで人に好かれる感じはあらわれていましたね。

さぞかし人気者だったんでしょうね。

太田さんのお父さんとお母さんのお若い頃のツーショット写真は、今の太田さんと光代さんにもそっくり!似ていましたね。

田中さんの写真が悪意ある~というか、なぜあの写真?!

もっといい写真もあるのにー。選んで使ってほしかったな。

叙々苑秘話もおもしろかったですね。

太田さんのお父さんの設計が、高級路線の原点だったのですね。

太田さんのお父さんのおもしろ話をもう少し。

かつてラジオで話していたことなんですけど。

 

 

お正月

正月に帰ると親戚中の人気者で

「さぶちゃんがきた!」

※名前が太田三郎

といって歓迎されておやじが中心になって、寅さんみたいな感じ。

 

知識も深く落語のように話をして場を盛り上げる。

「ああ、ああいうふうにみんなを楽しませるような人になりたいな」

とずっと思っていた。

けれど「光はだめだな」と言われていた。

いつもつまんなそうにしていると思われていたと思う。

テレビでも親戚の方が言っていましたね。

「なんにもしゃべらない、光が漫才やるって」

「だからしゃべるんだってば、漫才だもの」

って驚いたのなんの

といった感じで親戚の中でも太田さんは無口だと思われていたようで、さぞかしびっくりしたでしょうね。

 

 

病院で

脳溢血で倒れたとき、病院でつきそっていると

父「この病院は高いんだろう。いいんだよこんなところでなくても。心配でさ」

光「大丈夫、おれ稼いでいるから」

父「払ってくれるわけ?」

光「払うし。大丈夫だから」

父「夜になるとそんなうまい話はねえなと思う。あなた俺の息子でしょう。俺なんか早く死ねばいいと思うんだけどなかなか死ねないし。ありがとう。すみませんでした」

光「別にオレ、世話になったし」

父「でもあんんた俺のこと恨んでいるでしょう」

光「は?!」

父「俺のこと嫌いだろう。にくんでいるんだろう」

光「なんでよ」

父「なんにもしてやれなかったから。恨んでいるんだろうって思っていた」

光「恨んでないし、けっこう世話になったよ」

父「良かった。ありがとうなー」

 

 

いったん退院してまた入院したとき

父「あなた、おにいさんいたよね」

光「いないよ」

父「あれ、おねえさんもいたよね」

父「ひかり、ひかりっていうの、あんた。太田ひかり?あー、そう」

とじっと顔を見て

父「俺のせがれも太田光っていうんだよ。光にこたつ買ってあげないといけないんだよ」

光「なんで?いらないよ」

父「いらないの?苦しいよー。会いたいな」

光「誰に?」

父「光に」

(だから俺が光だって)おもしろいお父さんですね。

 

母親・瑠智子さん

先日のラジオで太田さんは母親の瑠智子さんのエピソードを話していました。

収録日が不思議にも母親の命日11月8日だったそうです。

瑠智子さんは若い頃、国分缶詰(K&K)に勤めていた時期があり、貿易部の経理に所属していた。その当時の社内報がみつかったと言われ見せてもらったところ

「職場の紅二点のうちのひとり瑠智子女史は気が強く男性社員を言い負かすのが趣味というたいした心臓の持ち主です。

仕事のほうはとてもほめられたもんじゃなく、昼間はなにもしてないくせに夕方5時をすぎると、やれコーラスだ楽団だといきいきとしだす。

それにひきかえもうひとりは質素で人気があって・・・」

と瑠智子さん以外の全員のことをほめている内容だった。

最後は

「貿易部は楽しくやっています。これで全員紹介を終わりました。

えっ、著者の紹介がないですって?もう紹介してますよ~。

名前は明かさないほうがいいでしょう」

と書かれていて、実は瑠智子女史が書いた社内報だったという。

だからみんな誉めながらおもしろおかしく茶化して紹介し、自分のことはけなしていたのです。

そう思いながら改めて文章を読み返すと間違いなく瑠智子さんの文章なのです。

「おふくろらしいな~」

と太田さん。

 

 

父親・三郎氏

太田さんの父親・三郎氏は物知りで、幅広い分野のことに造詣が深かった。

設計事務所を経営し大阪万博にも関わったこともあるそうですが、本当は落語をやりたかった。

春風亭柳昇の元に弟子入りしたが、同期に天才がいて「かなわないな」と思いあきらめた。

しかしこの天才は早くに亡くなったそうです。

お笑い好きの視聴者の間では有名ですが、焼肉“叙々苑”の看板の文字デザインを制作したのは、太田さんの父親だということ。見事な文字デザインで驚きます。

太田さんが以前ラジオで語っていた三郎さんのエピソードでなんといっても驚いたのは、太宰治に自分の小説を持ち込んだことがあるというエピソード。

 

太宰治と太田三郎氏

三郎氏は自分なりに小説を書いて、三鷹に住んでいた“太宰治”の家に行ったそうです。

6畳くらいのせまい家のあがりかまちのところから様子を見ると太宰治が後ろ姿でいる。

「先生」

と言うと、首だけ振り向いた。

「小説書いてきたんで、ぜひ読んでもらいたい」

と言うと

「あー、まあそこへんに置いといて」

と見向きもしない。

今度は一升瓶の酒を持っていって

「先生」

「おお、また来たのか」

「ちょっと小説を読んでもらいたくて」

「ああ、じゃそのへんにおいといて」

「先生、ちょっと、酒もってきました」

「おおー!!」

と振り向いて

「よく来た、よく来た。あがりたまえ、あがりたまえ。飲もう、飲もう」

と湯飲み二つ持ってきて

「あのー、小説は」

「ああ、後で読んでおくから」

と言われたっきり、読んでくれたかはわからない。

 

ということもあり、三郎氏は太宰治のことを

「あいつは、いいかげんな男だ」

といいながらも、ファンだったそうです。

 

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