東野圭吾映画『人魚の眠る家』脳死とは?を世の中に問う

前評判どおり、泣ける感動映画でした。館内でもあちこちで泣いている気配がしていました。

演技達者な役者さんたちの熱演、とくに主演の篠原涼子さんはもちろん、松坂慶子さんも印象に残りました。子役の子たちもどうしてこんな演技ができるんだろうと思うほど熱演でした。

冒頭の『人魚の眠る家』とタイトルが表示された場面は、バックの映像に物語の家族の家全体が映りますが、その屋根の瓦が一枚一枚キレイないろんな青色から構成されていて、まるで人魚のウロコのように感じました。

『子どもの脳死はまだ解明されていないところがあり、全国にも脳死状態で何年も生きている子どもがいる』ならば、その家族はどういう思いですごしているんだろうと考えさせられました。

映画に出てきた機械が現実に普及したら、当事者ならば、どう行動するのでしょうか。

『世界では脳死を死とする国もあるが、日本では心臓が止まった時点で死とする』。ならば、脳死である可能性がある女の子は、生きているのか、死んでいるのか?

臓器提供の意志があるときだけ脳死検査をすることができるという法律もおかしなものですね。

母親だけが「生きている」と信じて懸命に看病に没頭しますが、父親も弟も姉妹も「とっくに死んでいる」という。

 「死んでいる」というのであれば、いまここで包丁で刺しても「殺した」ことにはならない?人は二度死にはしないのだから。もし包丁で刺したことによって「死んだ」とされるならば、それまでは「生きていた」ことになるんだから、たとえ刑に服すことになっても本望。だれも断言できないのであれば、国に決めてもらう。

 といって警察を呼んでその前で、子どもに包丁を突きつける場面が最大のクライマックスです。一瞬、ん?どういうこと?と思ってしまいますが、誰も味方がいない追い詰められた母親がとる行動としてもわからなくはないです。しかし正直身勝手だなとも思いました。身勝手な行動をとってしまうくらいの激しい感情を感じます。聖人君子にはなれないのが人間です。人間らしさが描かれていてさすがだなと思いました。

 最後、夢の中に子どもが出てきて「ありがとう」という。救われる場面です。この日をもって旅だった日としたことはよかったと思います。

 ラストシーンは、女の子から臓器提供をうけて元気になったと思われる男の子がかつて女の子が住んでいた家に駆けつける。そこはもう空き地になっていた。

 ということで、物語としてはよい着地だったと思います。

 

が、臓器提供について。

 

無駄な延命はするべきではないでしょう。医学が進歩していくらでも延命はできるかもしれない。けれども意志のない本人は延命をして幸せなのか。といったらそんなことはないでしょう。

 

昔、初めて臓器提供の話が出たとき、世の中の人は驚いて大反対したに違いない。新しいことには反対がつきものだし、今まで考えが及ばないことだったから。しかし臓器提供によって、救われる命もあるということが理解できると「善いこと」という認識が高まります。

 

今は臓器提供の意志のある人は「善い人」という意識が広まっています。

意志を示した人の「世の中に役立ちたい」という気持ちは素晴らしいと思います。

 

しかし実は、亡くなるときに身体を切り刻んでしまってはいけないのです。臓器をもらったほうは良いとしても、提供した側は成仏できなくなってしまいます。

 

正解は、無駄な延命をストップして、最後正しいお題目を唱えて看取ってあげることが最大最善の生きている者のしてあげられることなのです。

すると時間が経つにつれて、当人の肌は白く透き通るようにツヤも出てきて、半眼半口、柔和な顔つき、手はほどいてもほどけるくらい柔らかく、身体はどんな大男でも軽くなり、成仏の相を呈してきます。

 当人にとっては、成仏できることがなによりなのです。