村上春樹訳『ロング・グッドバイ』あらすじ&あとがき・感想

ファンが多い有名なチャンドラーの作品です。村上春樹訳を読みました。

1958年の清水俊二氏の訳と比較されることが多いようです。

違和感なく読めましたので、私は良い訳だと思ったのですが、詳しい方の中には村上訳を批判している人もいらっしゃいます。

そうですか、これは「下手な訳なんだ」と思うしかありません。

繰り返し読んでも理解できず、なかなかページが進まないような読みづらい翻訳にあたると、腹立たしくなったりします。

そういう訳はなんとかしてほしいと思うときもありますが。

 

本書で??と思って立ち止まったのは

「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」

です。

清水俊二氏も村上春樹氏も同じ訳です。

なんだか変な言い回しです。しかし深い意味にもとれます。

当時のアメリカの流行語だそうです。

訳さなくて、そのまま載せてもいいのではないかと思いますが。

“To say goodbye is to die a little”

本書のあとがきは、たっぷりと読み応えがあります。

村上春樹氏の作品に対する情熱、翻訳の仕事に挑む考え方など、おもしろく読みました。

 

 

あらすじ

中年探偵マーロウが主人公。

感情の起伏は激しくなく、淡々と生きている、人の良い、親切な中年独身男。

テリー・レノックスという35歳前なのに総白髪で顔に目立った傷のある男と知り合いになる。

テリーは億万長者の娘と結婚していた。しかし妻は5人と結婚していてテリーとも一度別れて再婚した。

マーロウがテリーと初めて出会ったとき、テリーは泥酔していた。

だれも介抱してくれる人がいなかったためマーロウがひきとり自分の住まいへ連れて帰って休ませた。やがてテリーは礼儀正しく礼を言い別れた。

その後マーロウは、テリーが道ばたで浮浪者のような姿で警察にしょっぴかれようとしていたところに偶然出会った。またしてもマーロウはテリーを介抱してあげる。

それ以降、マーロウとテリーはたびたび会って飲みに行くようになった。

ある日、テリーが憔悴しきって拳銃を持ってマーロウの前に現われた。そして空港まで送ってほしいと頼んだ。マーロウは送ってあげた。

その後マーロウのもとに警察がやってきた。

テリーの妻が殺されたという。

テリーは殺人容疑者になっていて、マーロウは逃亡幇助罪で手錠をかけられ留置場に入れられた。

ほどなくしてマーロウは釈放された。

理由を尋ねると“テリーは妻を殺したという告白文を残し、拳銃で自殺し”事件は終わったからだという。

後日、スペンサーというニューヨークの出版社の社長より電話で仕事の依頼があった。

スペンサーとの約束のバーへ行った。

依頼は
「有名作家のロジャー・ウエイドが本を執筆中に行方をくらましてしまった。なんとか探しだし、本を完成させるようにしてほしい」
というものだった。

ロジャーは酒乱で、酒が入るとみさかいがなくなってしまうという。そして家を空けて帰ってこなくなるの繰り返しだそうだ。

マーロウはこの依頼を「この仕事は私立探偵に頼むべき話ではない」といったんは断った。

しかし、スペンサーが困った顔をしたためか
「どうしてもというのなら、一度その作家に会って様子をみてもかまわない。奥さんにも会って話してみましょう」
と言う。

すると、そのバーにはロジャーの奥さんミセス・ウエイドがすでに来ていてふたりのやりとりを聞いていた。

ミセス・ウエイドは

夢かと見紛う美しい女だった。細身で長身。髪はおとぎ話に出てくる王女を思わせる淡い金髪。瞳は矢車草のブルー。まつげは長く、はかないばかりに白い。

マーロウは結局引き受けることになった。

ロジャーが残した「ドクターV」というメモを頼りに、頭文字がVのドクターを3人に絞って訪問してみることにした。

 

 

グレート・ギャッツビー

『ロング・グッドバイ』の読み始めから『グレート・ギャッツビー』の世界観に似ているなーとすぐに思いました。

村上氏はこういう世界観が好きなのかとも思いました。

だから『ロング・グッドバイ』、『グレート・ギャッツビー』とも翻訳を手がけたのかと。

本書のあとがきにも『ロング・グッドバイ』は『グレート・ギャッツビー』を下敷きにしているのではあるまいか、かなり意識していたのではないかと村上氏も書いていることに驚きました。

そしてチャンドラーは実際フィッツ・ジェラルドの文学を愛好していて、映画化の企画までしていたといいます。

 

 

翻訳について

村上氏が清水俊二訳の『長いお別れ』を読んだのは高校生時代で、その本が刊行されたのは1958年。村上氏が翻訳の依頼を受けたのがそれからちょうど半世紀だったそうです。

村上氏は
「翻訳というものは家屋にたとえるなら、25年でそろそろ補習にかかり、50年で大きく改築する、あるいは新築するというのがおおよその目安ではないか。翻訳も25年を迎えたのものは少しずつ補修作業に入り、50年もすれば選ばれた言葉や表現の古さがだんだん目につくようになってくる」

だから清水俊二氏が訳したあと、自分が新訳を出すのは、頃合いだということなのでしょう。

清水俊二訳と村上春樹氏訳の両方を楽しんでくれると嬉しいとのことです。